20211005

昨晩、よく知らない人と会話をして、そのまま寝てしまった。

この、「よく知らない人」というのはアプリで話すだけの人だ。

こういったアプリを使って「よく知らない人」と出会う、或いは遭遇するケースがここ頻繁になってきているのは、ネット空間と現実の空間が表裏一体と化しているからだと思う。例えば、グーグルアースという機能で俯瞰して様々な世界を歩くことができるのもある。そこにはフィジカルな身体性が伴っていない場合が多く、突如として別の世界と遭遇してしまう。この「突如として」について考えてみた。

朝、オレは通勤するためにドアを開け、鍵を閉める。

今日はどうやら、あまり暑い感じもしない。

少し涼しい。けれど日差しが強い。そんな気がした。

アパートの階段を3階から1階に降りて、道に出る。

道に出て歩き進めたところによく遭遇するある男がいる。

彼は頭が緑色でいつも緑と黒を重ね合わせた様なファッションをしている。

腕には入れ墨を入れており、筋肉質のせいか背は低い、色白の人物。

オレは彼を「市松模様のグリーンデイ」と呼んでいる。心の中で。

その市松模様のグリーンデイが今日はサングラスをして歩いていた。

いつもアパートから出て、みっつめの曲がり角にある自動販売機でコーラを買う様子が見受けられる。

そのタイミング。このタイミングに合わせられるのかが、通勤する際に要となる。

あと、何分早くこの自動販売機に向かう人物と鉢合わせることができるのかが勝負なのである。今日は自販機で飲むタイミングに鉢合わせ、サングラスもしている。高ポイントだ。

これが「勝負」になってしまったのは、出社する際に早めの電車に乗りたいオレが、「早めの電車」と感じてしまう電車に乗れるタイミングと市松模様のグリーンデイがその道を通る時刻が重なっているからだ。

この「遭遇」と「よく知らない人と完成されたアーキテクチャに乗って現れる遭遇」との違いについて確かめていきたいといつも思っている。

特にオレはこういった「完成された」という言葉を使いたくないが「完成されている」と感じてしまっているところにネットっぽさを感じる。

電車に乗る前に「よく知らない人」と話した時間をアプリで見ることができた。この時間の長さと通勤するときの時間の長さを引いたときの数字は何を意味しているものなのか。時間として出てしまったときに会話の内容は思い出すことができるのか。ふと、遭遇した時間にたじろいでいる自分がいた。