20211021

昨日の話をもう少し続けたい。新美術館で行われた展示には作為的な意図を読めなかったという意味で、あまり作品の連なりが読み取れなかったという事なのだろうか。そういった話の様な気がしてきた。村田作品について考えるための作品という話であれば、それには明確な意図があり、鑑賞者側もその意図を汲む鑑賞方法を探っていく。しかし、そこには作品同士のつながりは村田作品との関係を編んであったという事になるため、作品のジャーゴンを損なっている気がしてならない。

そう考えたとき、この間にみたリストの個展はどうだったのだろう。タイトル、「あなたの眼はわたしの島」に使われた眼はリストが一貫して示してきた「血の通ったカメラ」を意味している。明快なテーマではないが言葉から想起させる話について、多数に飛び火しながら考えさせられる。回顧展ではあるものの、そこから別の方向に行ったり来たりする視野が心地よかった気がする。

新美術館での文学展もそういった回遊性を求めていたのではないのだろうか。グループ展にも思考と身体を行ったり来たりさせる事ができる展開の仕方があればいいのになとふと考えたりしていた。