20211120

どうやら散歩日和であった。

東久留米のスパジャポに行く予定が立ち消え、2人で岩盤浴もなくなった。

同じ金払うなら映画でもみるかと思い、文化村に足を運ばせた。フレデリック・ワイズマンのボストン市庁舎という4時間半の映画をみる。

ワイズマンは知り合いの作家がミキ・デザキの主戦場をみた話をしたときに「ワイズマンの方が編集されていなくて好きかな」と話していたのを覚えている。

確かに編集されていない映画といえばそうだが、編集されていない様にみえる編集のされ方をしている。

今回の作品は、アメリカ、ボストンの市長を中心に描いていくという映画であるが、市長とその周り、それは市民や役所の人、警察、道路工事の人、野球選手、ホームレスといった市に住んでいる人々も映されている。この映されている。というのは、ワイズマンが傍観しているという視点に立つという意味で、我々がその場所が持つ空気をいかに嗅ぎつけるのかというところが必要だったりする。意識しなくてもスクリーンと対峙せざるおえない環境の中で埋没していく。4時間半。

個人的には、離婚して1人になった老人のシーンが印象に残った。それでも生きてやる。そういいつつも周りの生活環境はパートナーがいたときのまま、片付けられていない。そこにネズミが大量発生し、駆除の人が尋ねるというところだ。

「そんなときもあるよな。もしものときは電話ください。」と話しかける。

映画の中では市長も直ぐに何かあったら僕に連絡ください!と話している。どこかでみたことがある素振りだと思ったら、建築家、坂口恭平だった。

坂口恭平は、ゼロ円ハウスというDIYでありもので家を建てるという提案をして、一躍ときの人となった建築家でもある。その坂口が「自殺者をゼロにする」という目標ではじめたのが「いのっちの電話」というものだ。私もやったことがあるが、折り返し坂口から電話がかかってきた。

ケアと市長。当時はトランプ政権下となり、ボストン市長もトランプとは異なる政策をこちらは取ると話している。映画ではトランプという単語がでなく、あの人になってからとなっているのも印象的だった。

ところで、ワイズマンの初期作品を見ていなかった私は、映画をみた後に映画についてよく知っている人が切り盛りしている飲み屋に行って話を聞いた。

ワイズマンは観察映画という文脈を踏んできた人らしく、編集をあまりせず、被写体と距離を取り、皮肉な立ち位置を取っていたという。精神病棟や動物園、刑務所といった管理下に置かれた動物をさらに監視するという映画ばかり撮影されている。だが、ボストン市庁舎はいたってふつうな人々が描かれており、どこかPRの様に見えなくもない。これは、政権のPR動画なのではないのか。それを皮肉に描いたものとして話を聞いて思った。


家に帰り、新しいパソコンが届く。あの人は、パソコン壊れたときになんとかなったと話してたけど。相当な修理費を要するにも平気な顔してたのを思い出した。