20220627

 ことばの学校で書いた草野なつかの「王国」については、自分の発達性における「」なやり取り、意思疎通のはかれなさみたいなものがあったりする。けれども、この不調なやり取りみたいなものに疎ければ疎いほど、人間関係について半身で分かったつもりになっている。

 みんながみんなやってないから半身であるという話でもなく、言葉が「そがれている」という事だったり、めちゃくちゃな言葉の配置に対して、メスを入れないことでもある。それによって「会話、してるやん」と自然になっていればいいのだが、会話にならないときに映画だったりの別の形をまとわせる。それが草野さんの映画にあったのではないかと思って書いていた。
 感情的な語りに対して疲弊する気持ちも分かるが、それを起こしたのはその前後の文脈だったり、その時、その場のモードであったりが左右する。半身はそれに疎いことを意味している。無意識に付き合っている。それでいいけれども、無意識を意識化して言葉に発するときもたまにはいる。そのとき、文字でのやり取りは不調だと思ったりするのは僕だけかもしれない。
 いま、こう、言葉にすることで視覚的になるけども、断定しているだけで、疲れる。この疲れに対して、最近では絵文字で回避しているときもあったりする。確か、アジア圏内でインディペンデントキュレーターをしている人がどこかのトークで「絵文字が分からない。」と話していたときがある。
 この「絵文字が分からない。」という語りは2013年とかそれくらいだったハズ。あれから10年近く経って、いま、ラインに絵文字があふれている。それだけのコミュニケーションもある。けれどもリアルはリアルとしての会話に適合している。
 自分自身、よく、相手の文脈をよまずに話してしまい、やってしまったーとなるときもあって、それについて、同郷のモデルの人が同人誌もどきのエッセイで語っていた。保育園から小学生にあがるまでの体験をエッセイにはしるしてあった。
 「あー、こんな人いたな」と思っていたらその人は保育園のときに同じだった。友達のお母さんに怒られた話など書かれてあり、そんなときもあったような、なかったようなといった感覚になる。
 僕もなにがしかの仕方でいつも結局、肝心なことは覚えていない。容量が悪い。けれども外山滋比古の本をよむと「忘れる」という事を肯定的にとらえている。それは、現代病に対する新たな勉強のメソッドなのではないのかとも思う。千葉雅也の勉強の哲学にもそれを感じた。
 以前、牛童子についてのレポートを書いたときがあり、掛け軸で川の水を耳にかけると過去を忘れるという内容の作品についてだった。過去を水に流すという意味でもあるのだが、この水に流すという意味をかけ間違えて捉えていたと思うレポートだった。

 たまたま、転属前の先輩に落ち合うタイミングがあり、街を歩いた。その人と最近入社した元お笑い芸人の人とだった。前のOJTの人が事前に入社する人をGoogleを使って、調べているという影響故か、その人も以前、調べてみました。調べてしまった事を元お笑い芸人に伝えたら「ネタも出てくるから恥ずかしい」と言われた。
 調子に乗ってか先輩も「俺もしらべよう」と話していた。昼食の道を3人であるいた。通りのニトリまでという事だった。その道すがら、転属前の知り合いが無表情で道を歩いていた。
 お笑い芸人の人が「犯罪者みたいな顔してるな」と話していた。
 あまりの無表情で僕も声をかけるのに戸惑いを隠せなかった。

 この前、料理研究家のゆうき先生が亡くなったのを知った。この人の料理本を使って、小学生の頃に家庭科の授業で野菜あんかけを作った。片栗粉の混ぜ方があまり良く分かっていなかったため、だまになって完成した。

 あまり考えることなく、いえのあまりものということでまたチャーハンを作ってごろっとしていた。
 食後、ディズニーチャンネルで「拾われた男」というドラマをみた。松尾さんという俳優の半自伝小説が元になっている。
 冒頭、有村架純が主演していた連ドラ、ひよっこの撮影シーンから始まる。「有村さんより僕のドラマなんてみんな、興味ないでしょ。」と編集者の役をやっている夏帆に松尾さんがいうシーンからはじまる。何の変哲もない始まり方だが、家族で恵方巻きを毎日食べていたというシュールなエピソードから幕が上がる。
 松尾さんの高校の同級生らしき人物がモデルを目指しに大阪から上京するわー、と話すシーン。そこで、松尾さん役演じる仲野太賀も上京。何故か仲野太賀の兄が草薙さんとなっており「アメリカに行く」といってアメリカに行ってしまう。この先が2話となっていた。