20220305

 昨晩、小学生の頃からの友達と牡蠣鍋をつつみに渋谷で飲んだ。

 彼は高校の教員をやっているらしく。クラス編成で大変だと話していた。会話で、僕の発達性の話にもなった。あの頃、そういえば、鼻水をとにかく垂らしてしまったり、重度の発達性障害を持っている人と積極的に会話をする様にしたりしていたのが脳裏に浮かんだ。どうやら最近になって、彼もディスレクシアの人を抱え、教えているという。そこで僕の発達性の話にもなった。

 そのとき、今週、ことばの学校で作家の多和田葉子さんがドイツで行ったワークショップの話が思い浮かび、その話を彼にした。4歳か5歳の児童に日本語を見せて読ませるというもので、みんながドイツ語として日本語に触れていたという話を多和田さんはしていた。つまるところ、常に我々は多言語の世界で生きており、絶対的な「私のことば」「私の国のことば」というものは存在しないという話を確か、彼にした。その話をしたとき彼は、あー、といい、絶句するまでもないがことばが拾えない様な表情をしていた。

 それから、彼のパートナーが渋谷で三人で飲んでいるということで、連れてこようとしていた、けれども店が予約制で厳しかったため、別の飲み屋に移動して飲んだ。途中、麻雀のアプリを一緒にして盛り上がって解散した。ほか、ゴルフの話とか、高いホテルをパートナーといってカードがやばいとか、結婚式にわんこそば食べたとか、彼が筑波大でいい研究室だったという話だった気がする。

 帰宅。就寝。起きてすぐ、二日酔いっぽい。

 冷凍したご飯をレンジでチン。美術科教育学会の発表を元教授がしていたので聞く。プレゼンとディスカッションといった構成。そこに、教育学出身の研究者の人がいて、美術教育は基礎研究がなく、掴みにくいという話が印象に残る。確かに、ハーバート・リードから前進していない。そのためか、ポストモダン以後の現代思想の受容がうまくされていないのではないのか、という指摘もされていた。ただ、教育学にとっての美術に美術教育は応えられていない。その齟齬は何なのか。基礎概念がないからなのか。少しもどかしい。

 確かに、ビショップの人工地獄でも教育について触れており、美術自体が転換期になっているのは考える。けれども、それなぜか美術のための教育と教育のための美術で様相が異なる様だ。その差異に自覚的でいるのか、強く言えば、ただ、ムードで終わってしまうのか。気になる所。

 それをみてから、渋谷のデモライブ?をYouTubeでみる。主催者はバンド、GEZANのボーカル、マヒトゥ・ザ・ピーポー。この人。確か先週、絵描きの友達と行った渋谷のデモにいたよなと思う。そんなぼやぼやしていたら、もう14時になっていた。

 身支度をして、渋谷へ。本屋でアガンベンの『スタンツェ』を購入。たまたま、新書コーナーにあった岩波明の『発達障害』が気になった。さすがに、もので買いにくいと思い、Kindleで購入。

 東横線で斜め読みするも、分かるところがいくつかあった。確かに、やばいよと言われたり、それを個性として僕も認めてそういった振る舞いをしてしまうし、それで首絞めてるのも分かるし、どうにもできないよなと思っていた。ただ、理解者をどう作っていくのかという所。元カノも僕のおかしさに気付いていたし、それが嫌になって別れたというのもあるし、会社の先輩も僕のミスで困っているし、そうしたら僕はどこに居場所があるのだろうと思い返したりしていた。

 多分、ないからことばを募るんだろうなと。そのためか、非言語圏よりも言語圏に意識が向いてしまうのもそうなのかなと思ったりしていた。