20220420

 いまだに、ひっついているこれ、あまり良くないよな。そう感じながらもアーティスト、柴田さんのツイートで幸福について考えるのがいい、自尊心が奪われる、不幸のチキンレースに囚われるなというのがあった。友人に話したら、確かに目標があった方がいいんだよな、という話になり。目標か。となった。

 
 ことばの学校、今日は小説家、高橋源一郎だった。
 質問で日雇い労働で働きながら小説を書いている人が、まわりの労働者にも小説を書かせたい、どうしたらいいのかと聞いていた。
 高橋さんは文章を書く人はみんな不幸になるから勧めない、と話していた。だって、君が文章を書いてもお金のない等身大の事しか語れない、僕も等身大の事しか語れないから、らしい。

 僕は高橋さんに講義の中で、ゴースト・バスターズ、という小説が語れないのに語るという表象不可能性について触れていたため、それについてもう少し聞きたいと思っていた。自由を標榜している作家が何故、完成させなければいけないとなっていたのか。
 それについて、高橋さんはこのときは完成させなければとなっていた。なので別の高橋さんがいた、という。また、その別の高橋さんが出てきて、歴史小説を書き始めている、らしい。
 歴史は物語でしょ。といっていた。
 確かにそうだ。中国の司馬遷も、史記を書き、自ら語る事で事実誤認であれど、王朝を別に作り出した。歴史学者E・H・カーも歴史はある一人の語り手によって記述されるため、その語り手の目線でしか語れない、つまるところ物語であると最近、改訂された歴史とは何か、で書かれている。
 高橋さんは別の人格をいったりきたりしながら創作し続けているのだと感じた。
 
 授業が終わった後、神泉の駅まで歩いた。男子トイレの小便器は距離が近い、ことばの学校の人がいた。僕はあっ、といったものの、挨拶してほしくなさそうなおじさんであったため、声をかけなかった。ホームにいても声をかけられない、ちょっと怖かった。
 その人は何故か、僕に似ていると思えた。
 数年後、この人みたいになるのかな、と思った。けれども、この人みたいになる、と意識したら本当になってしまう、とも思った。

 怖いな、と思った人や物事は等身大の自分の反射。だと僕は常に意識したりしている。なので、僕の中にもその一面があるのではないのか、僕は違うと言い切れないのではないのかと、ふと感じた。