20220314

 昨晩、絵描きの友達と抽象画の話になり、造形作家、岡崎乾二郎の話になったりした。美術手帖のイノセント特集で椹木野衣村上隆浅田彰とのトークイベントが掲載されており、それについて話したりした。村上さん曰く、まったく噛み合わなかったらしい。その噛み合わなさについて僕はよく知らなかった。

 僕は岡崎さんの作品については、会田誠の「美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちでとるのだろうか。」(2007)が印象に残っている。これについてあまりどういう意味なのか話たりした。どうやらこの作品を会田さんが発表したとき、「この作品を作って大丈夫なのか」と岡崎さん本人からではなく、全く知らない人から指摘されたという。
 これについて、絵描きの友達は岡崎さん本人だったら権利上の問題として分かる、けれども全く知らない人から指摘されるという話はまた別の話ではないのかという話になった。
 確かに岡崎さんのペインティングは綺麗だと僕も思う。けれども、それを超えた理論の構築について何が必要だったのだろうと考えたりするときもある。面白い理論ではあるのだけれども。
 僕も『抽象の力』は買っていないが、美術手帖印象派特集の岡崎さんの文章は影響を受けている。実際、この日記にも反映している日がある。けれども、アブストラクト、パワーなのか。
 パワー。もらえるのかな。
 それよりも、ダミアン・ハーストの桜は抽象画なのか具象画なのか判然としないのが僕にとっては気になったりしている。会田誠と同じ時期にイギリスで盛り上がったYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスト)と呼ばれた人々がおり、ハーストもその一人の人物ではある。元々、牛を真っ二つに分割して、ホルマリン漬けした作品でターナー賞を受賞。美術界に鮮烈なデビューを飾る。このターナー賞はテレビ局(イギリスのTBSみたいな局)がバックについており、24時間テレビみたいな特番で賞の発表をしていた。
 そういったマスとの関わりをイギリスはクール・ブリタニカしかり、上手くやっている。日本でもそれになぞったクール・ジャパンを漫画でやっているが果たしてどうなのだろう。
 それはともかく、ハーストは絵画を描いてこなかった。描いたとしてもメインはホルマリン漬けの彫刻?を展示し、それと共に彫刻みたいな抽象画を展示していた。回転したりするものであったり、小ぶりな作品が多い。けれども今回は巨大なキャンバスに描いている。ハーストは国立新美術館のHPに貼られたリンク、インタビュー動画で抽象画を描くのが恥ずかしかったみたいな事を呟いている。
 確かに、ヘテロの男性の抽象画には何か臭い強さを感じてしまう。これはなにか気になった。それに戸惑っているハーストも弱い一面を感じさせる。いままで「ノーフューチャー」といっていたパンク精神。強さ。死との接近はどこにいったのだろう。それでもハーストは男性の弱さをつぶさに見つめつつもそこに回帰していったのではないのか。切断されたホルマリン漬けの虚しさも。桜を描いてしまった戸惑いも。
 一緒にインタビュー動画をみた絵描きの友人と今度、ハーストと一緒にやっているなんとか美術館展に行こうという約束をして、寝た。
 朝に味噌汁と納豆ご飯を食べて、家を出た。昼休みに道を通ると満開の桜が路上に咲いていた。