20220622

 昨日、日記を書いて思ったのが。カッコつけた言い方をしている所。なにもカッコつけられていないし、単なる物思いにふけっているだけなんじゃないかと思ったりしていた。
 それにしても。この日記は誰に見られているのだろう。誰かにみられて書いているのかも分からない。
 数カ月後にはまた忙しくなるのにも関わらず。そこから先が読めない。

 午後、いつも少しうとうとする。転属前の先輩によく「hanbara、おまえ、目を開けながら眠る癖。あるよな。」と言ってきたの思い出す。たまに、斜視になりながら相手の話を聞いてしまうときもあり、内心汗をかく。転属後の上司にもそれをやってしまったときがある。

 学部生の頃にコールセンターのアルバイトをしていたときがある。実は研修期間中にクビになった。それは研修期間の間に話を研修として話を聞くタイミングがあり、その人の話に聞く耳を持てず、白目をむきながら聞いてしまい、その人に絶句された。
 ちょうど、元カノと付き合う前で新宿の安いピザ屋などをコールセンターで働く主婦に聞いたり、働いている人に近くで演劇みにいきませんかと誘ったりしていた。なので電話でクビを言い渡されて、バイトにもクビがあるんだなと思ったりしていた。なので、転職後の研修期間が心配でもある。
 母親のママ友の子供が仕事中に寝てしまう病を抱えているらしく、仕事する身体ではなかったという人がいる。その人は席についたときにウトウトが始まり、仕事にならないのだそう。ある意味、「健常者である」と考えている人は「非健常者である」という意味に触れる機会もなく、ひたすら市場価値に振り回され、働けない人を見捨てる事を難なくやれてしまう。

 ことばの学校最終回。ドラマの何話まで完結したみたいな書き方だ。けれどもドラマ仕立ての様に事は進まないし、全く前進もない。そのため、「お疲れ様でした」の声が明るく轟く。これ自体は別に悪くもすんともないのであるが、この学校にお金を払って来たのであれば、あと少しなにか足りない。
 みんな、良かったですよ、と褒めあっている。それは岸田にもあって、優劣がついていないという点にあるのかと思ったりしていた。
 九龍ジョートークの間、後半、寝ていた。朝まで仕事だったらしい。ライターの仕事は荒波なんだなと思った。

 大阪でインディペンデント・キュレーターとして活躍してた人が僕のインスタグラム、ストーリーをたまに覗いている。この人はたまに流すストーリーが面白い。同じ名前の人がおり、キュレーターには絶対になるなよ、とつぶやいていた。
 
 やはり、そもそも書き手という存在にそこまで興味を持って接していない。けれども書き手がいなければ、認識が狭まってしまう。言葉が認識を狭めてしまうのと同時に、言葉を開く必要がある。この開かれた言葉の使用法について吟味したい。抽象的な言い方になってしまったが、そんな危惧は常々していた。

 回がはじまる。そのはじめ。席についたとき、かきやさんがおり、「こんなに過密でも。大丈夫なのでしょうか。コロナの流行。またはやってますよね。」と聞いた。するとかきやさんは「まあ、あれ、ほぼ、嘘でしょ。」と笑顔で話していた。これが大人の対応なのかと思った。